ポツダム会談とトルーマンそして原子爆弾(1)
2011年2月18日
宇佐美 保
先に拙文≪操り人形と化した菅直人氏(1)≫にて、引用させて頂いた『ポツダム会談 日本の運命を決めた17日間(チャールズ・ミー著 大前正臣訳)』には、沢山の貴重な歴史的事実が記載されていました。
そこで、今回は、「原子爆弾」そしてその投下命令を下した「トルーマ大統領」に関する記述を主に引用掲載させて頂きます。
なにしろ、その著の冒頭には、先にも引用させて頂きました次の記述があるのですから!
(そして、このミ氏の見解に到る所で納得させられるのですから!)
ミー氏はちょうど本書を書き終えたばかりだった。私も、アメリカが終戦当時、天皇制をどうしようとしていたかの問題に興味を持っていたので話題は必然的にアメリカの“日本処分”政策に移った。すると突然、彼はいいにくそうに漏らした。 「あなたたち日本人には残酷な話だが、トルーマンは日本との戦争を早く終わらせたくなかったのだと思うよ」 「なぜ」 「原子爆弾を落とすまではね」 |
そして、この文中には、「若し……だったら、そんな悪い事態に陥らなかったろうに」と残念に思わざるを得ない決断決定などが諸所に見られます。
多くの方々は「歴史に“若し”は禁句である」と言われますが、歴史を学ぶにあたってこの“若し”を蔑ろにしては歴史を学ぶ意味が無くなります。
(単に小説を読んでいるのと同じです)
私達は、歴史から、出来るだけ沢山の “若し”を嗅ぎ分け、汲み取り、これから私達が築いて行く歴史に、その“若し”を反映する責任と義務があると存じます。
ですから、次に引用させて頂いた個所からでも、多くの(私が気になった以上の)“若し”を感じ取って頂きたく存じます。
では、次から、このミー氏の著で、大前正臣氏の訳による『ポツダム会談 日本の運命を決めた17日間』からの引用を続けさせて頂きます。
ヘンリー・ルースは1941年「二十世紀は.アメリカの世紀″になる」といったが、オーガスタ号の人びとはアメリカの世紀におけるこの歴史的事件とアメリカの国力を十分に意識してポツダムに向かった。なるほどソ連は巨大な、そして強力な陸軍持っている。イギリスには連邦がある。 しかしアメリカは戦争の物質的被害を受けていない。適切な育て方をすれば、もっともっと強くなる。アメサカは海と空を支配していた。テクノロジーによって形成される時代の初めに当たって、アメリカはテクノロジーも持っていた。オーガスタ号上で交される会話の裏には、ニュー・メキシコ州アラモゴルドで進められていた原爆実験の「秒読み」があった。 トルーマンと軍人たちは原爆に血なまぐさい希望を託していた。しかし原爆を何の目的に使うのか、日本を負かすために原爆が必要かどうかはまだハッキリしていなかった。ソ連が極東対日戦に参加して、ヨーロッパでやったような掠奪をしないうちに日本を負かすために原爆を使える、という者もいた。しかしバーンズ国務長官は「原爆の最大利益は日本を負かすためではない。ヨーロッパでソ連をもっとおとなしくさせる別の目的のために使える」といったという。 |
このバーンズ国務長官の談話から、「トルーマン大統領は、多くの自国の兵士犠牲を回避しつつ、対日戦争を早期終結に導く為に原爆を日本に投下したというアメリカ国民の多くが抱いている評価」に疑問符が付いてきます。
日本ではタカ派とハト派が論争し、四六時中、なにかを企んでいた。日本政府は最後まで戦うべきか、なんらかの形の和平を求めるべきか、で分裂しでいた。和平としては、連合国が要求した無条件降伏の形式より寛大なものを望んだ。 アメリカはある期間無条件降伏″形式が日本を必要以上に抵抗させると考えたこともあった。ドイツに対する無条件降伏の要求がヨーロッパにおける戦争を必要以上に長引かせたという人も多かった。スチムソン陸軍長官はとくに、原爆投下前に日本に降伏のチャンスを与えたがっていた。オーガスタの出航前、彼は部下に米英両国がポツダムセ日本に向けて発表する最後通告「ポツダム宣言」の草案を作成させたが、それは、最後にもう一回、日本に降伏を呼びかけ、降伏しなければ本土に壊滅的打撃を与える″と警告する文面だった。 スチムソンらの考えでは、問題は天皇であった。もし天皇の保持を許すならば日本は名誉ある″~伏ができる、と考えられた。そこでスチムソンらはポツダム宣言案に、「日本の国民の意思に基づく平和志向的な責任ある政府が樹立され次第、連合国の占領軍は撤退する」という条文を書き、それに「この政府は現在の王朝による立憲君主制も可」とつけ加えた。 これで連合国が天皇保持を許す意図であることは日本に十分に伝わる、とスチムソンは考えた。しかしトルーマンとバーンズはオーガスタ号上で宣言案を検討したとき、天皇に関する部分を削ってしまった。 |
此処の記述の「もし天皇の保持を許すならば日本は名誉ある″~伏ができる、と考え、原爆投下前に日本に降伏のチャンスを与えたがっていた」とのスチムソン陸軍長官の思いを、「トルーマンとバーンズはオーガスタ号上で宣言案を検討したとき、天皇に関する部分を削って」踏みにじってしまったのです。
七月十二日、東京では天皇が近衛文麿公爵を呼び、内密に会談した。異例にも儀礼を破り、天皇はひとりだった。 天皇は疲れ果て、青ざめていた。近衛に、戦争に対する意見をたずねた。近衛は「できるだけ早急に戦争を終わらせねばなりません」と答えると、天皇は彼にモスクワゆきの準備をするよう命じた。 その晩八時五十分、東郷茂徳外相はモスクワ駐在の佐藤尚武大使に無線で至急電を送った。それにはこう指示してあった。 「和平工作のため近衛公をモスクワに派遣したいので、大至急、モロトフ外相から同意を取りつけてもらいたい。ソ連首脳部がポツダム会談に出発する前に近衛がモスクワに到着するのは不可能だろう。しかしポツダム会談が終わり、スターリンらが、モスクワに帰着したらただちに交渉を始める必要がある。したがって便は飛行機にしたい。ソ連側が迎えの飛行機を満州里ないしチチハルまで乗り入れるようにしてほしい」 近衛はモスクワにいって、何をするのか。訓電には、彼は次の趣旨の天皇親書を携えてゆくが、この趣旨は佐藤大使からモロトフにもよく説明してほしいとあった。 [天皇陛下エオカセラレテハ今次戦争ガ交戦各国ヲ通ジ、国民ノ惨禍卜犠牲ヲ日日増大セシメツツアルコトヲ御心痛アラセラレ、戦争ガ速カニ終結セラレンコトヲ念願セラレオル次第ナルガ、大東亜戦争ニオイテ米英ガ無条件降伏ヲ固執スル限り、帝国ハ祖国ノ名誉卜生存ノタメ、一切ヲアゲ戦イ抜クホカナク、コレガタメ彼我交戦国民ノ流血ヲ大ナラシムルハ、誠二不本意ニシテ、 人類ノ幸福ノタメニナルベク速カニ平和ノ克服セラレンコトヲ希望セラル] 要するに日本はソ連の調停で、無条件降伏でない形で降伏したい。それについて交渉したいので、近衛特使を受け入れてほしいということである。 この訓電は米側によって傍受、解読され、トルーマンのもとにまで報告された。 同じ日、アラモゴルドでは原爆のプルトニウムの核が陸軍の革の後部座席に乗せられ、実験場に運ばれた。…… |
ここでの記述の「日本はソ連の調停で、無条件降伏でない形で降伏したい……」に見ますように、若し、先に記述した「スチムソン陸軍長官の思いを」トルーマンらが踏みにじっていなかったら、日本はポツダム宣言を「原爆投下前に」、「ソ連参戦前に」受諾していたでしょう。
しかし、そうならなかった裏があったのです。
第4章 顔合わせ 七月十六日朝、パーベルス・ベルクは静かだった。早朝は涼しく、湖はそよともせず、ゆるやかなカーブの街路に日影をつくる木々の葉を揺るがす微風も立たなかった。スターリンの御召列車はまだ迂回コースを走っており、その日遅くでないと到着しそうもない。 チャーチルもまだ寝ていた。 早起きのトルーマンはもう起きていた。大統領はバーベルスペルクの小ホワイトハウス≠フ二階の続き部屋を使っていた。部屋の裏のサン・ポーチから静かな湖につづく芝生が見渡せた。 彼は「親愛なるママとメリーヘ」と家に手紙を書いた。 「ポツダムの湖のほとりの美しい家に滞在していせす。映画界のボスの家でした。男はソ連に連れていかれたそうです。理由はわかりません」 …… 十一時、チャーチルがイーデン外相とカドーガン外務次官をつれてやってきた。チャーチルとトルーマンは前に覚書と電報を交換し電話でも話し合い、チャーチルがルーズベルトに会うためワシントンを訪れたとき、チラと顔を合わせたことがあるが、国家の首脳として会うのはこれが初めてだった。チャーチルはトルーマンの陽気で、きちんとし、キラキラするような態度に魅せられた。トルーマンも一目でチャーチルが好きになった。 初めての出会いは大成功だった。ただし通訳のボーレンはこれまでの会談とちょっとちがっていることに気づいた。「ルーズベルトはチャーチルとスターリンに温かく、友好的だったが、トルーマンは適度に距離を置いていた」と彼はいっている。 二人は小ホワイトハウス≠フ応接間に落ち着き、そこにバーンズも加わったが、話題はただちに日本のことになった。 チャーチルは「イギリスは日本上陸作戦に兵力を提供できます。協力させてもらいましょう」と申し出た。 トルーマンはこのイギリスの気前のよい$\し入れに感謝した。しかしイギリスの助けを借りなくても、極東の戦争はうまくゆきそうだった。事実、トルーマンはこのころには対日戦を独力でやりたがっており、どこにも手出しをさせたくなかった。 アメリカ代表団の本国出発前、大統領と統合参謀本部が会合したが、このときレイビ提督は、日本に対する無条件降伏の要求は落とすべきだと思う、といっている。「そんな要求をすれば、日本を自暴自棄にさせ、わが国の死傷者数が増えるばかりです」と彼は進言した。日本は敗北寸前にあった。 無条件降伏形式を落としさえすれば、日本は戦争をやめそうだった。いずれにせよイギリスの加勢はありがた迷惑でしかなく、その点についていえば、ソ連の援助も不必要だった。E・J・キング海軍作戦部長も「ソ連の協力は必要欠くべからざるものではありません。日本を負かすコストは高くなるが、アメリカだけでやれます」と大統領に勧告している。 バーベルスベルクの大統領のもとに届けられた戦況報告もこの見通しを裏書きしていた。 七月十五日の報告。 [グアムの司令部によると、米国軍艦は今日も日本本土の目標を砲撃しつづけ、航空母艦も活動した。昨日は釜石の日本製鉄を艦砲射撃し、破壊した。艦載機は本州、北海道上空を飛びまわり、日本機二十五機を破壊、六十二機に損害を与えた。一機以外は全部、地上にいるところを攻撃した] 日本は飛行機を飛び上がらせる力さえ失っていた。米機は抵抗を受けることなく、ほしいままに日本上空を飛び、思うままに爆撃できた。 七月十六日の報告。 [グアム司令部によると、マリアナを飛び立った空の要塞(B29)″は昨夜、下松の日本石油を攻撃した] 抵抗はなかった。日本はもはや自らの力で本土を守ることができない。 アメリカ側はまた、日本政府がモスクワの佐藤尚武大使のもとに送った「和平工作のための近衛特使派遣」の悲痛な電報も傍受して知っていた。 だから、極東でイギリスの力を借りることはない。ソ連の助けも要らない。スターリンは八月八日までに対日参戦をすると約束していたので、これを止める方法はなかったが、トルーマンとしては、ソ連の参戦を催促するような特別の働きかけはしない。参戦のお返しとして、なんらかの譲歩をするつもりも毛頭ない。それに、いずれにせよ、対日戦争は八月八日前に終わっているかもしれなかった。 |
かくも劣勢な日本に対して「アメリカ代表団の本国出発前、大統領と統合参謀本部が会合したが、このときレイビ提督は、日本に対する無条件降伏の要求は落とすべきだと思う」とのレイビ提督の進言を尊重していれば、先の記述同様、日本はポツダム宣言を「原爆投下前に」、「ソ連参戦前に」受諾していたでしょう。
トルーマンはたいへんな賭けをやっていた。勧告資料の表現を借りれば、あまりにも多くの連合国が対日戦に参加し、日本打倒に相当な貢献をしないうちに″戦争に勝つ必要があった。彼には二つの武器があった。どちらも同じほど効果的だが、一つは無条件降伏の要求を落とすことであり、もう一つは、実験が成功すれば、原子爆弾を日本に落とすことであった。無条件降伏の要求を落とすのは軟弱政策≠セ、という批判が一部にはあった。逆は、原爆を使えば、日本を敗北させるとともに、ヨーロッパでソ連をもっとおとなしくさせそうな二重の利点があった。とにかく、アラモゴルドでの実験の結果を待ったほうがよい。 トルーマンはこのような情勢をチャーチルに説明し、アメリカがソ連に頭をさげてまでして対日参戦をたのむつもりはない、といいきった。チャーチルは途方もなく陽気になって会談から引き揚げ、トルーマンの強い決断力に深く印象づけられた。それはバーベルスベルクで午後一時を少しすぎ。 |
しかし、「原爆を使えば、日本を敗北させるとともに、ヨーロッパでソ連をもっとおとなしくさせそうな二重の利点があった」に関しては、トルーマンの頭の中では、後者に関心があった事が分かってきます。
トリニティ≠フ暗号名で呼ばれたニュー・メキシコの原爆実験地では、午前五時十分。 最後の秒読みが始まると、科学者や他の視察者は壕に入り溶接工用の保護メガネを目にあてた。…… そこからちょっと離れた地点に、後日、ソ連のスパイと判明したクラウス・フックス博士が立っていた。彼は原爆の力を正確に計算し、爆発の際にも地面に伏せる必要がないことを知っていた。…… |
原爆実験場に「ソ連のスパイ」がいたのですから、スターリンには、トルーマンからの報告がなくとも、原爆成功に事実を知っていた事でしょう。
次は、チャーチルがベルリンを視察した際の記述です。
案内人が錆びた石油缶がいくつか転がっている場所を指さし、ヒトラーとエバ・ブラウンの死体を燃やしたところだ、とチャーチルに教えた。チャーチルは一瞬、目をやったが、不快気に顔をそむけた。彼は黙ったまま車に戻った。 「見物にゆくのではなかった。バーベルスベルクに帰ると、まず殺菌剤をどっさりいれたバスに飛びこんだ。次に非常に強い酒を飲んだ。ベルリンの廃墟は猥雑だった」(イズメイ卿) チャーチルはこのときの感想を回顧録にまとめている。 「現代文明の道徳原則として、戦争で負けた国の指導者たちは勝った国によって殺されることになっている。このため今後の戦争でも、指導者たちは悲惨な最期まで戦い抜き、自分にとっては同じなので、どんなに多くの犠牲者を出すこともはばからない。余分の犠牲を払わされるのは戦争の開始にも終結にもほとんど発言権のない大衆である。ジュリアス・シーザーはこれとは反対の原則に従った。 彼の征服は彼の勇気と同じくらい彼の寛大さに負うところが大きかった」 トルーマンはベルリンを見たあと「人間が背伸びをすると、あんなことになる」とだけいった。 |
この記述から、チャーチルには、「無条件降伏のもたらす悲惨さ」を認知して居り、「シーザーの征服は彼の勇気と同じくらい彼の寛大さに負うところが大きかった」からも、この時には、チャーチルは日本への寛大さを思い描いていたと思われます。
第5章 開会 スチムソンは世界中のだれもが飛びつきそうな紙片を凝っていた。七月十七日の朝、彼はこの原爆実験成功の極秘電報をバーンズ国務長官に見せ、次に昼食時にチャーチルにも見せた。 バーンズに見せたとき、彼は日本に対する政策二つの点で変更するようにすすめた。一つは、原爆投下前に日本に対し強い警告を出すこと、もう一つは、日本が天皇を保持できることを日本にいってやることだった。バーンズはこのどちらについても首を横に振った。彼は大統領の権威で拒否した。 スチムソンは、負けたと悟った。そこで話題を変え、満州などについて話をした。 チャーチルは宿舎で電報に歓喜した。「これで第二次大戦を早急に終わらせることができる」と回顧録に書き、それからソ連のヨーロッパ進出を考え「その他にも大いに役立つ」とも付け加えている。 「それまで、われわれは猛烈な爆撃ときわめて大規模な軍隊の侵入によって日本本土を攻略する構想を立てていた。われわれは日本人があらゆる洞窟、あらゆる壕で、サムライ精神で必死の抵抗をし、死ぬまで戦うと予想していた。日本人の抵抗をー人ー人排除し、国土ーメートルずつ占拠するには百万人のアメリカ人の命が失われよう。もしもチャーチルがイギリスの戦闘参加についてトルーマンを説得できれば五十万のイギリス人、いやそれ以上のイギリス人の命も失われるかもしれない。われわれはアメリカと苦悩を分かち合う決意をしていたからである。いまや、この悪夢も消えた。その代わり、全戦争が一、二回の猛烈な衝撃のうちに終わる明確な見通しが出てきた」 チャーチルの思いは日本とヨーロッパの半々に分かれていた。 「われわれは突如として極東では殺戮の慈悲深い短縮、ヨーロッパでは遥かに明るい見通しを持つにいたったようだ。アメリカの友人も同じ気持を持っていることは疑いない」 スチムソンはチャーチルに、ソ連に原爆のことを伝えることに同意するようすすめたが、チャーチルは耳を貸そうとしなかった。スチムソンはかなり強硬に主張したが、チャーチルの意志はかたかった。七月十七日年前、スチムソンがあれほど努力したにもかかわらず、電報は何の役にも立たなかった。 |
チャーチルは、広島、長崎での原爆被害者の方々の悲惨さよりも「ヨーロッパでは遥かに明るい見通しを持つにいたった」を重視したのでしょう。
「ヒトラーとエバ・ブラウンの死体を燃やしたところ」で、チャーチルの脳裏に浮かんだ「敗者へのシーザーの寛大さ」は、この時点では消えていたのでしょうか!?
又、スチムソンの願いをチャーチルが聞かなくても、先の記述に有るソ連スパイ(クラウス・フックス博士)からの報告がスターリンに届いていたのかもしれません。
散会が近づき、車が砂利道の車寄せに集まり始めたころ、ヘンリー・スチムソンはバーベルスべルクの宿舎で、新しい電報を受け取った。 [医者(グローブズ少将)がいま帰ったところだが、子供(日本に投下するはずの原爆)は兄ちゃん(アラモゴルドで爆発した原爆)と同じくらい元気だときわめて意気軒昂で、自信満々。子供のらんらんたる目は当地(ワシントン)からハイホールド(二百五十マイル離れたロング・アイランドにあるスチムソンの農場まで見られ、泣き声は当地から私の農場(四十マイル離れている)、にまで聞こえます] 電報を解読した将校はスチムソンに子供が生まれたと思い、祝賀のため会議は一日休会になるかもしれないと考えた。 スチムソンは電報を手に持ち、薄暮のなかを歩いて、トルーマンの宿舎に夕食に出かけていった。…… その晩、トルーマンがスチムソン長官、マーシャル統参本部長、アーノルド陸軍航空隊司令官、キング海軍作戦部長をもてなした。彼らはみな大統領の原爆投下計画に賛成でなかった。しかしトルーマンは彼らの機先を制し、グローブズ少将から本報告を受け取るまでは日本に原爆を落とすかどうかは決定しないといった。(そのころグローブズはワシントンで報告書に取り組んでした。) |
ここでも、トルーマンは「チムソン長官、マーシャル統参本部長、アーノルド陸軍航空隊司令官、キング海軍作戦部長らはみな大統領の原爆投下計画に賛成でなかった」の機先を制して、「グローブズ少将から本報告を受け取るまでは日本に原爆を落とすかどうかは決定しないといった」との事ですが、この「グローブズ少将から本報告」は、後に引用させて頂きますが、その記述よりも尚、後の方に、次の記述が存在します。
第18章 幕引きの時 八月一日 (水曜) ワシントンではグローブズ少将がスチムソン陸軍長官の原爆担当補佐官ジョージ・ハリソンに一つの書類箱を渡した。それにはシカゴ大学の金属学プロジェクト・チームからの陳情書、アンケート調査、報告が入っていた。 シカゴ大学の物理学者、レオ・シラードは原爆について道徳的に悩んでいた。バーンズ国務長官は原爆について、ヨーロッパでソ連をもっとおとなしくさせるための最後の審判の日″の仕掛だと語ったが、シラードもそれをきいた一人だった。時間がたつにつれ、原爆を使ってはいけないというシラードの良心の痛みは耐えられないほどになった。七月初め、彼はついに勇気を奮い起こし、原爆計画に参加した科学者仲間の抗議運動を組織しはじめた。もちろんこの時点ではもはや手遅れだった。 七月の前半、彼は仲間の科学者の間に「最初に原爆を使った国は想像を絶する規模の破壌の時代を開く費任を負わねばならないかもしれない」と述べた陳情書をまわし、六十九人の署名を集めた。この陳情は議論をひき起こしたが、彼はついに百五十人の科学者の意見をアンケート調査した。日本に対してもはや原爆を使う必要はなくなったという、軍部の判断を知っている者は一人だにいなかった。 日本降伏のために原爆使用賛成……15% 軍事的誇示に賛成……46% 警告として実験的示威に賛成……26% 示威には賛成だが、脅迫には不賛成……11% 使わず、示威せず、秘密を継続することに賛成……2% ハリソン補佐官はグローブズ少将から受け取ったシラードの陳情書、反対陳情書、アンケート調査を眺め、一括して資料箱に片づけた。 |
…… その晩、スターリン大元帥はソ連軍の極東方面移動を指揮するため真夜中すぎまで起き、司令官たちに全速力で極東に急行するよう命令を下していた。 事実、ソ連軍は呆れるほど、がむしゃらに満ソ国境に送られていた。 極東東、ザバイカル方面軍のマリノフスヰ一総司令官の手記によると、関東軍との戦闘に向くと思われた東プロイセン、チェコの首都プラハ方面に駐留していたソ連軍が送られたが、会談が始まったころには移動は最高潮に達し、一日、二十二ないし三十列車がひきもきらずシベリア鉄道を東へと向かった。 目的地の手前ではついに殺到する貨車をさばききれず、途中で降ろされる部隊も出てきた。これらの部隊は目的地まで行進させられた。数百キロも行軍した部隊はモンゴルの猛暑に苦しみ、自動車のエンジンも焼け、くたくたに疲れながら、それでも満ソ国境に向かって行進をつづけた。 こうしで兵員、軍需物資を満載し、九千ないし一万二千キロも離れたシベリアに送られた貨車は、実に十三万六千輌にのぼった。独ソ戦終結当時、四十個師団に満たなかった極東軍は二倍に増強されつつあった。 |
このスターリンの行動からは、日本が降伏する前に参戦し、日本からの戦利品を確保したいの思惑が見え見えです。
余り長くなりましたので、次の拙文≪ポツダム会談とトルーマンそして原子爆弾(2)≫に移らせて頂きます。
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